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ピザと親方、日本とナイジェリア その2
前エントリ「ピザと親方、日本とナイジェリア その1」を読んでくださり、コメントを下さった「粉塵爆発電網記憶」のブログ主である、NANさんにお答えするために見つけ、追記でご紹介した、
「特集 豊かな原油に蝕まれるナイジェリア」
ナショナルジオグラフィック 2007年2月
を、読んでのことです。
たった二年間のこととは言え、世話になったというか、とりあえず二年間メシのタネになってくれた国のことですから、私にはナイジェリアに対するそれなりの感謝や思い入れがあるわけで、その国がここまで悲惨な状況になっているとは。
実は、本エントリではナイジェリアの話は適当に切り上げて、本論である「日本」、「ちまたにあふれるプチ親方」(C:とらこ)に入ろうと思っていたのですが、上掲の記事及び、私のエントリとナショナルジオグラフィックの記事を読んでくださり、素晴らしいエントリを揚げてくださったNANさんに触発されて、もう少し、ナイジェリアについて書いて見たいと思います。
NANさんはTBを私のエントリに送ってくださったようですが、通っていないようなのでここで改めてご紹介いたします。
「粉塵爆発電網記憶」
そして、当エントリ関連記事:
「どういう世界?」
「黒い黄金」
さて、ナイジェリアの現況ですが、私が駐在していた頃に比べ、はるかに悪化している。
私のいた頃は、軍政から民政移管してから数年後で、シャガリ氏という文民大統領の時代で、政情はそれでも比較的安定(?)していました。
それでも、前回書いたとおりの恐るべき混乱、混迷の中にあったわけですけれども、上掲ナショナルジオグラフィックの記事で述べられているような、ゲリラ活動や、外国人誘拐などは、ゼロではありませんでしたけれども、跳梁跋扈というほどでもなかった。
おそらく、シャガリ政権以後の数度に渡る軍事クーデターを経て、さらなる混迷が深まり、国民はすでに何の救いも見い出せない状況の中、怒りを爆発させているものと思われます。
また、前回書いたように、メインテナンスということが出来ない人たちなので、都市機能は更に悪化、ほぼ完全に麻痺状態になっていることも間違いないと思います。
NANさんは、「住民は脆弱で無知で非合理であってくれればそれで良い、という判断がどこかにあるのではないか」とエントリに書かれていて、それにつき「特定するのがむずかしい犯人(おそらく様々な複合体)」が関わっているのではないか、という推理をなさっていて、私にはそれが正解か不正解かを断ずるだけの資料も能力もありませんが、
取りあえず、間違いないことは、「国民がニンゲン扱いされていないこと」だとおもいます。
この「国民がニンゲン扱いされない」という危険な状況は常にどこの場所でも存在するわけで、例えば戦時下の日本でもそうでした。
ですが、私が前掲、ナショナルジオグラフィックの記事の中でとても悲しく思った一節は、
デルタ地帯の東側に浮かぶボニー島の西端に、フィニマという村がある。石油と天然ガスの採掘コンビナートに近いこの村の礼拝堂で、漁師のフェリックス・ジェームズ・ハリーがぼやいた。(石油、天然ガスの採掘コンビナートのせいで)「魚が獲れなくなった。これでは暮らしていけない」。30歳のハリーは二人の子供の父親で、今日の午後も、本来なら小舟でザリガニやイワシなどの漁に出るはずだった。それなのに、ほかの漁師たちといっしょに、蒸し暑い礼拝堂で暇をつぶすしかない
フィニマの村にある礼拝堂では男たちが席を立ちはじめ、一人、また一人と夕暮れのなかに消えていく。ハリーは礼拝堂を出る前に、信仰さえあれば、神が村を救ってくれると語った。祈りの集会の告知をあちこちで見かけるし、道沿いの教会でも礼拝が行われているから、ボニー島は信仰のあつい土地なのだろう。19 世紀半ばにやって来た何人ものプロテスタントの宣教師がこの地にキリスト教を根づかせた。ある教会には、「祈りなさい。そうすれば、いつか事態は解決する」という言葉が掲げてあった。
*太字は引用者
んなもん、何万年待ったところで、神が救ってくれたりはせんのです。
こうして、外部から押し付けられた「神」を信じて、それにしか救いのない人々。
ここで、押し付けられた「キリスト教」がこういう人々の精神生活上、なんの役にも立っていない、とは申しません。
が、やはりそれは、決して本当の「救い」などではないと、思うのです。
こういう、都市部に住んでいるわけでない人たちは、おそらく、素朴な「善き人たち」なのに違いありません。
そして、彼らの頭の中は、「なぜ、家族を愛し、民族を愛する我々が、このような理不尽な状況に置かれなければならないのか」という疑問符でいっぱいなのだと思います。
ですが、「神」にすがったところで、「救い」なんぞくるわけもない。
そこで誰かが、「神にすがったところで無駄でっせ」と言うことに意味が無いのはわかっています。
しかし、ポイントは「なぜ理不尽なのか」を理性的に考え、「ニンゲン扱いしない連中」に反撃の仕方をリクツで考え、次の世代に伝えていくことしかないはず。
ところが、そうなってはいない。
そしてそうなっていないことについて、彼らを責めることなどできるはずもなく、してよいことでもないでしょう。
なにせ、ほとんど全ての世の矛盾、問題について彼らが教えられてきたことは、基本的に「民族対立」の文脈においてであり、「彼らでなく、他の部族や、あるいは政府が悪い」のであり、また、彼らの旧弊な考え方が「近代国家」にマッチしないことなどにも思いを馳せることもなく、誰かがそれを口にしたとしても、「親方」としての旧世代が考えることでさえ潰してしまう。
もちろん、政府めっちゃくちゃ悪いです。
その間に、国家は軍事政権を脱して民政に移行したが(1999年の選挙で文民政府が発足)、国際危機グループが言う「腐敗の病巣」は温存されたままだ。グループの報告書には、「制度化された国富の略奪」という、ある先進国の外交官の厳しい言葉も引用されている。しかも、その金額は途方もなく大きい。 2003年に政府の汚職対策機関が推計したところ、石油による歳入の実に70%、額にして140億ドルが盗まれるか、浪費されているという。
と、言うように、これは私がいたころからそうですが、小役人から、もっと上役、地方のボスから、中央政府の高官まで完璧な賄賂漬け、そしてそんなことは当然のことで、公金の横領なんざ当ったり前の話。
果たして、「制度化された国富の略奪」が、「神への祈り」でなんとかなるもんなのか。
上掲のNANさんのブログ「黒い黄金」から引用いたします。
治安の悪さや劣悪な環境が「理性で物事を考えない住民」や「民族愛や部族連帯だけを重視し、なにが国家にとって大事なのかを考えない有権者」たちによって数十年来維持されてしまうという、実は、程度の差こそあれどんな国にでもある「実情」を、より過激に燃え盛らせている実態を突きつけてくれることだ。
*太字は引用者
特に、国民が文字を読めず論理的に物事を考えられないようにしておけば、まっとうな判断によって政府を断罪したりリコールしたりという「正当な抗議」には出ず、なんでも武力や端的な暴力・犯罪で解決しようとするしか方策がなく(知恵もなく)、どの道”お荷物”でしかないそうした勢力は互いに争わせておけば軍部の利潤も膨らみ、利権の確保に役立つのだろう、とも思うのです。
*太字は引用者
次回をこのことについて考えてみたいと思っています。
<<ピザと親方、日本とナイジェリア(その3) ンゼへの手紙(その1) 訂正アリ9/1/08 | ホーム | ピザと親方、日本とナイジェリア その1(追記あり8/19/08)>>
Comments
NANさん
質問
もし、ちょちょんまげさんが悲しきナイジェリアに生を受け、その地で成長していたとしたら、果たして現在のちょちょんまげさんのように「理性的」でいられたでしょうか? 言い換えますと、ちょちょんまげさんの理性的な頭脳は、周囲の環境に左右されない、ちょちょんまげさん生来の特性なのでしょうか?
ばっけばっけ
凄まじい文字化けメール(TBやコメが届くとメルが来るのです)が来たので、てっきりSPAMだ、そうに違いない、迷わず削除だ!と思いました。新手の荒らしでしょうか…www
冗談(?)はともかく…ヒトというのはかくも難儀な道を歩むものなんですねぇ。だがしかし…その解決策が”理性”なのか?と問われると、私は首を傾げずにはいられないのです。そう…仮にすべてのヒトが理性的で平和を望むのであれば…我々センシンコクに棲むニンゲンたちこそ”最大の理性”を示す必要があるはずなのです。その結果は…私たちが”獲得した”と思い込んでいる安寧や財産の放棄を含みます。それほどの強い理性や協調性が、果たしてヒトにはあるのだろうか?そこが最大の難関なのでしょう。
愚樵さん
ご質問に私なりの回答をするならば、「理性」は生来の特性も少しはあるけれど(人間が「なぜ?」を合理的に追求する性向を持っていることなど)、近代国家に必要とされる(と、私が思っている)ぐらいの「理性」は環境ではないでしょうか。
私がナイジェリアに生まれてたら、間違いなく他のナイジェリア人と同じような考え方をしていると思います。
ただ、私は、私が世界でも稀な、情報が欲しければ基本的に手を伸ばせば届く場所に生まれた幸運を思います。
「理性、理性」と騒ぐことについて、多くの疑問が呈されていることは存じ上げておりますし、それだけでいいとは、私だって思っていません。
ただし、「理性とはなにか」という哲学的な考察に入る前に、少なくともナイジェリアでは、また他の国でも常識的な範囲内での「理性」なしで、現実的に事が上手く運ぶとは思えないのです。
で、手を伸ばせば届く場所にいるのに、伸ばさないことについて疑問を感じているのです。
逆にうかがいたいのですが、愚樵さんは「親方」についてどうお考えですか。
私の立場をはっきりさせておくと、日本という特権的な国に住んでいる以上、彼が角界という特殊な世界にいようといまいと、「わからない、理解しようとしない親方」に100%問題がある、と、いう立場です。(その親方をどうわからせるか、とかいうのは、また別の議論だと思います)
NANさん
>我々センシンコクに棲むニンゲンたちこそ”最大の理性”を示す必要があるはずなのです。その結果は…私たちが”獲得した”と思い込んでいる安寧や財産の放棄を含みます。それほどの強い理性や協調性が、果たしてヒトにはあるのだろうか?そこが最大の難関なのでしょう。
おっしゃるとおりなんですよね、実際。
これに対する回答は、残念ながら私も持っちゃいません。
自分の生活も支えなきゃならない一人として、私が考えられるのは、自分が住んでるところと、自分の祖国ぐらいのレベルなんです。
で、「理性、理性」と大騒ぎすることの醜悪さみたいなものも、以前のNANさんや、猫さんとの話を通じてだいぶわかってきたつもりではあるのですけれど、やはり「最低線」みたいなところがあるように考えるのです。
特にセンシンコクにすむ我々としては。
理性を疑うのも理性なのでは
とりわけ資源の豊かな国では、外国からいろいろな形で資金が流入する結果、国家機構は利権を吸い上げるための道具であると同時に、近代的な武器で装備した、反対派や批判者を弾圧するための純粋の暴力装置として機能しています。建前としてのイデオロギーに関係なく、多くの場合、権力を争う者らにとって、権力とは最も魅力的な金のなる木にすぎません。誰も彼もがいったん権力を握るや、身内での利権の分配を最優先して瞬く間に腐敗をはじめ、それに対する批判を暴力で封じ込めるということを始めます。
その結果、多くの国々で権力の独裁化が常態化し、政権の交替はクーデターや内戦によってしか可能ではないという悪循環に陥っています。それが、独立以来40年を経ても、状況が改善されないどころか、一部ではいっそう悪化している原因の1つなのでしょう。
むろんそういった状況を憂慮している人たちや、下から地道な努力を積み重ねていこうとしている人たちもいるのだろうと思います。しかし現状では、為政者の側には国家を統治するものとしての意識がなく、それと争う側も、程度の違いはあれ同じ穴の狢でしかないように見えます。独裁に対する抵抗運動がたとえ最初は理想主義者的な指導者に率いられていたとしても、それが成功すれば、そのまわりには必ずおこぼれに授かろうとする利に敏い者らが現れます。これはどこでも起こることであり、そういったことを防ぐ確実な手段というのもありません。
現代では、すべての地域が、否応なしに世界的な連関の中に引きずり込まれています。その中で、現状を変えるには、多くの人々の意識を狭い身内の利害から、もっと広いところへ向ける必要があります。それに必要なのは、やはり教育を始めとする、地道な啓蒙活動と言うべきでしょう。
理性はむろん特効薬でも万能薬でもありません。理性がここまで到達すれば、それですべての問題が解決されるというようなゴールなどありはしません。しかし、近代的な合理主義が先進国で行き詰まりを見せており、それと同じ徹を踏まないことが必要だとしても、そのような理性を疑うのも理性の働きではないのかと私は思います。
性善説
興味深く読ませていただいていますにゃ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080826-00000002-dol-bus_all
ナイジェリアで工場ができるそうですにゃ。
基本は経済であるというか、メシの種の確保をしなければ理性もクソもにゃーと思っているんだけどにゃ。でも、得られた富を蓄積したり配分したり、さらに資本を回転するシステムがなければ、どんなにカネをぶち込んでも意味がにゃーわけだ。
で、そうした合理的な経済システムというのは、実のところ性善説に基づくものではにゃーかと僕は思う。
とにかく独り占めして独裁して敵はぶち殺し、というのも実はある種の理性に基づいているのではにゃーだろうか。性悪説の理性というか。
世界が違うという認識
理性ということでお尋ねしましたが、私は本当は、環境によって異なってくるのは理性どころではない、精神世界そのものではないかと思うのです。人間をコンピュータに例えれば、精神世界ってのはOSでしょうか。で、理性ってのは人間というCPUに備わった機能なんでしょうが、私たちのOSでは、その理性が重要視された設計になっている。
私たち日本人のOSと欧米人のOSは多少異なるが、それでも共通の近代国家というアプリを正常に走らせることが出来る。ところがナイジェリア人たちのOSには、近代国家というアプリは走らない。それを無理やり走らせているのが現在の状況で、ゆえに国家という非常に暴力的なアプリが誤作動をして酷いことになっている。
ちょちょんまげさんは、そういう状況を見て、ナイジェリア人たちのOSを私たちのそれと近いものに書き換えるべきだ、という。でも、OSの書き換えは大変なことです。ハンチントンなら「文明の衝突」というでしょうか。
それにそもそも、近代国家というアプリはOSを書き換えてまで走らせる価値があるものかどうかも疑問です。この疑問は、かつさんのいうところの「理性に対する理性の働き」ですね。
で、「親方」です。私も『美味しンぼ』は見ましたのでその話は知ってます
。私はあの「親方」を“わからない、理解しようとしない”人物だとは捉えませんが、ここはちょちょんまげさんにしたがってそういう人物だとしましょう。とするなら、私の見方でも「親方」は非難するべき人物になります。
そう判断する一方で、私は「親方」を非難するちょちょんまげさんに疑念を向けるわけです。それがコメントでの「質問」の心だったわけですが、つまりは、「親方」とちょちょんまげさんとは、どう違うのか? ということです。
ナイジェリアの多くの人たちは塗炭の苦しみの中にあります。その現実に心を痛めるちょちょんまげさんへの共感は私の中にもあります。ですが、その解決のために近代国家というアプリをOSを書き換えてまで走らせるべきだと考えるちょちょんまげさんは、相撲というOSから「ちゃんこ」というアプリに固執する親方と、どう違うのでしょうか? どちらも、自分のOSにこだわるあまり、相手のことを“わからない、理解しようとしない”のではないのでしょうか?
かつさん
>その中で、現状を変えるには、多くの人々の意識を狭い身内の利害から、もっと広いところへ向ける必要があります。それに必要なのは、やはり教育を始めとする、地道な啓蒙活動と言うべきでしょう。
以前に、地下に眠るMさんと宗教関連でお話をさせていただいた時に、Mさんから「啓蒙の暴力性」ということで、「啓蒙」についての疑義が提出されたことがあります。
で、私もMさんのおっしゃる事について大いに考えさせられたわけですが、ここでナイジェリアで現在必要とされていることは、「だれが啓蒙するのか」という大問題は大いにあるものの、やはり「教育」なんだと思うんです。
で、誰が「啓蒙」するのかというと、これはナイジェリアの人々自身でしかありえない、と思う。
続きは、愚樵さんへのレスを読んでください。
愚樵さん
次のエントリで触れてみたい内容のことが多いので、詳しくは次回まわしにさせていただきたいのですが、簡単に。
私は愚樵さんの例で言うならば、生まれたての人間のOSは基本的に共通(環境しだいでいかようにもなる、ということで)、そして、愚樵さんのおっしゃる精神世界はアプリだと思います。(どのようなアプリでも搭載可能。一度乗せちゃったアプリに新たなアプリを乗せることはなかなか難しいが、可能だと思います)
>ちょちょんまげさんは、そういう状況を見て、ナイジェリア人たちのOSを私たちのそれと近いものに書き換えるべきだ、という。
言っていません。新たなアプリを乗せることを可能にするのが、「理性」だと言っているつもりです。
>近代国家というアプリはOSを書き換えてまで走らせる価値があるものかどうかも疑問です
ナイジェリアを解体して、過去の姿に戻して再出発、なんてことが可能だとお考えになりますか?(これは、「現実的に考えて」ということだけで言っているわけではありません)
私と親方の違いは、私が「相手のことを理解しようとしない」が事実だとしても、「リクツは理解しようとすること」に対して、親方は「相手のことを理解しようとしないばかりか、リクツも理解しようとしない」ところです。
「相手を理解しようとしない」は、私の見解では、全人類共通だと思っています。(なんぴとも、誰かが相手のことを理解しようとしてるか、してないかなどとは決め付けられない、ということで)
追記:漫画の登場人物についての人物評につき云々するのもおかしな話ですが、「親方」が、設定として善人であり、そんなにムチャクチャなわからずやに描かれていないことは、私も否定しません。
しかし、周囲に「あの親方はちゃんこに信仰に近いものを抱いている」、「部屋の力士の交際相手に文句をつけるだろう」などと思われている「権力者」であること自体、私にいわせりゃ「バカ丸出し」です。
猫さん
レス前後で、失礼します。
>ナイジェリアで工場ができるそうですにゃ。
もし、記事の中で社長が言っていることが本当ならば、住友化学ふぁ〜いとぉ〜、ですね。
実は私が関連していた某日系オートバイメーカーの現地法人(工場もありました)は、まだあるようです。
いずれにしろ、駐在で行かれる方々のご無事、ご安全、そして、これから工場を作る住友化学には、まず工場がちゃんと完成することをお祈りするばかりであります。
>基本は経済であるというか、メシの種の確保をしなければ理性もクソもにゃーと思っているんだけどにゃ。
なんですよね。
「衣食足りて礼節を知る」っつうのは、実に真実だと思います。
で、「衣食が足りなくなっちゃった」理由として、大いに猫さんのおっしゃる「性悪説の理性」(私がちゃんと理解しているか、少々疑問ですが)みたいなものが関与してるわけですけれども、対抗手段として、「呪術」や、「神頼み」では勝負にならないんじゃないかなぁと、思うわけです。
で、実際、勝負にならないから、どうしても実力行使(ゲリラ活動や、誘拐なんか)になっちゃうわけで、さらに泥沼になっちゃうんですよね。
でも、ナイジェリアの「実力行使」は、「国のためとか、国民のため」とやらじゃなくて、完全に「金儲けの手段」になってるっぽいですけど。
続きが楽しみです
穏やかにレスを返していただいたことに感謝します。
>生まれたての人間のOSは基本的に共通
>そして、愚樵さんのおっしゃる精神世界はアプリ
なるほど、これは基本的な人間観の違いですね。さて、この差異が理性的な議論で埋まるかどうか。難しいかもしれないと思います。
あ、でも、続きは楽しみにしています。うまく言葉がかみ合わないかもしれないと思いつつも、ちょちょんまげさんとの議論は楽しいです。
また挑発的になってしまうかもしれませんが(苦笑)、ご容赦のほどを m(_ _)m
愚樵さん
>生まれたての人間のOSは基本的に共通
>そして、愚樵さんのおっしゃる精神世界はアプリ
一つ伺いたいのですが、私は生まれたての赤ん坊の脳みそに民族間の差異は無いと考えています。
それをお認めにならないということは、愚樵さんは民族、民族で、赤ん坊が生まれた段階で(その脳みその構造なり、なんなりが)すでに西洋的であったり、東洋的であったり、アフリカ的であったりという違いがあると考えているのですか?
それって、あたかも「獲得形質遺伝」みたいですごいですな。
PCの比喩、そのほか
まず、
>それって、あたかも「獲得形質遺伝」みたいですごいですな。
という主張を、愚樵さんはされていないと思いますよ。
私のエントリでも、ニンゲンをPCに喩える比喩を使わせていただきましたが、あくまで比喩は比喩です。ヒトとPCは根本的に違うものですから、よほど解釈に大差がない限り、比喩のロジックについて議論することに、あまり意味があるとは思えません。それでも敢えて、要らぬ応答を避けるためにちょっと私から横レスをさせてください。
生まれたてのニンゲンの”ボディ”という器は、なるほどどんなOSでもアプリケーションでも走らせられそうな”白紙の状態”であることは私も同意します。また、その他のほとんどの方が同意してくれるのではないか、と思います。無論、愚樵さんも、白紙状態という意味では比喩のポイントの違いこそあれ、同じ意見ではないか、と思うのです。
しかし、精神世界を”アプリ”と捉えるちょちょんまげさんのスタンスに対して、私はちょっと疑問を覚えるのです。メタな議論なので本当はどうでもいいことですが、実はこの辺に”理性論”のヒントが隠されているかも知れないので、もう少し続けます。
精神世界というものは、ある個体が生まれて育ち生活するという生存環境に強く依存する”人格のベース”になるものですから、PCに無理やり喩えるなら、かなりコアなロジック…もしかしたらOSよりもっとネイティブなBIOSだとか、CPU上のROMに値するものかも知れない、というのが私の見解です。これにより、言語を含めた精神世界というのは、アプリという「目的別に多数ラウンチ可能なツール」に比喩し難い、と私は思うのです。
さて…近代国家というアプリを走らせるためには、近代国家というアプリケーション自体が、ターゲットPCのOSに最適化されているべきなのですが、実態はそうではない。だけど、一度RUNしてしまったアプリを強制終了させることもできそうにない。これをなんとかうまく誤魔化すために、「理性」という修正パッチをOSにあてましょう、というのがちょちょんまげさんの主張である、と私は認識しています。
でもね…このナイジェリア問題を引き起こしたのは、ナイジェリア国民ではなく、近代国家というアプリを持ってきて、無理やり走らせた”センシンコク”を名乗る搾取集団なわけです。とりわけオイルメジャーの連中が真っ先にアプリケーションの致命的欠陥をどうにかしないと、この問題の解決は糸口さえ見えてこないだろう、と私は思っています。
私は「理性」(とは本当は違うと考えているけれど、一応ここでは理性のままにしておきます)が欠けているのは、誰よりも異邦人たちだろう、と思います。そう、近代国家こそ理性の欠けた欲望アプリケーションなのではないでしょうか。
#理想論を云うなら、欧米的でも日本的でも○○的でもない、他に類型のない”ナイジェリア”を再建するしかないんだよね。鎖国でもなんでもしてさ。
NANさん
>周囲の環境に左右されない、ちょちょんまげさん生来の特性なのでしょうか?
という愚樵さんの質問と、
私の
>生まれたての人間
という回答に対して「人間観が違う」とおっしゃられたので、「もしかして?」という疑問から、確認の意味で上記愚樵さんへの質問となりました。
とりあえず、PCの例えが100点満点かどうかはともかくとして、NANさんがおっしゃるように、
「これをなんとかうまく誤魔化すために、「理性」という修正パッチをOSにあてましょう」
に近い考えを私が持っていることは認めます。
というのは、このように修正バッチを当てる作業というのは世界中で行われている当たり前の行為であると思うのです。
恐らく、一切の修正なぞせずに生きていけることが一番幸せであるのでしょうが。
例えば、NANさんも良くご存知、「キリスト教原理主義者」がバッチを当てられず(というか、拒否して)大暴れしているのはご存知の通り。(一般化しないで、「米国では」と言わないかんですね。ww)
そこで文化背景云々を考慮せないかん、というのは理解できるのですけれども、ナイジェリア(だけじゃないと思うのですが)ほどにバッチを拒否する人が多いと、やはり混乱しちゃうわけですよ。
私も最初のエントリで書いたとおり、そもそも熟成してないところに、近代国家を無理やり持って来ちゃったのが最大の誤りであることはそう思うし、NANさんご指摘の、
>でもね…このナイジェリア問題を引き起こしたのは、ナイジェリア国民ではなく、近代国家というアプリを持ってきて、無理やり走らせた”センシンコク”を名乗る搾取集団なわけです。
>近代国家こそ理性の欠けた欲望アプリケーションなのではないでしょうか。
も、然り、と思います。
ただ、現実問題として、ナイジェリア人はとりあえず「ナイジェリア人」になってしまったわけです。
新しい世代は「ナイジェリア国家」が当たり前になっている。
これは、「ンゼ」の頃からそうでした。
ですので、言わば多少OSの変更は行われているわけですね。
で、「そもそも無理だったんだから、やめちゃおう」なのか、「無理が無理でなくなるようにしよう」なのかは、勿論我々が決めることでなく、彼らが今後どうしたいのかによるわけです。
残念ながら、私は「これからナイジェリアがどうすべきか」なんていうとんでもない大問題に回答なんか持ち合わせません。
ただ、強調したいことは、センシンコクという恐ろしく狡猾な連中と対抗していくのに「○族のペケ族の」とか、「イスラムのキリストの伝統信仰の」などといつまで言っていて国内で反発しあってる状況は、あまりにも不利すぎるということです。
また、政府のとんでもない腐敗ぶりを見ても、民族主義の弊害が明らかだと思うんです。
血縁地縁優先主義が賄賂、汚職の温床になることは、日本を見ても明らかだというのは、NANさんにも認めていただけますよね?
然り叱り
もちろん、然りです。
当然のこととして、搾取や汚職を”許してしまう”土壌も彼の国の意識”問題(敢えてレベルではなく問題)”としてあるのでしょう。
ただ…ここはとても微妙なところでして、ちょちょんまげさんの心の中にナイジェリアへの愛着だとか慕情めいたものが色濃く残るからこそ…あるいは、自分が戦い、だけどもうまく戦えなかった経験というものが、おそらくあるからなのだろう、ということは自分自身の過去をかえりみても理解しつつ…それでもなお、ちょちょんまげさんの主張の中心に、攻撃性とまではいかないまでも、ドン・キホーテ的な”正義に基づく批判”があるように思えてしまうことが、なにか引っかかってしまうのです。
>ただ、強調したいことは、センシンコクという恐ろしく狡猾な連中と対抗していくのに「○族のペケ族の」とか、「イスラムのキリストの伝統信仰の」などといつまで言っていて国内で反発しあってる状況は、あまりにも不利すぎるということです。
また、政府のとんでもない腐敗ぶりを見ても、民族主義の弊害が明らかだと思うんです。
おそらく彼らは、ちょちょんまげさんが述べるように、もはやセンシンコクを真似ざるを得ない状況…国際参加せざるを得ない状態にあり、もう後戻りはできません。しかしそれですら、本来であれば「聞く耳をもって合理的に考えることができるのであれば」本当に豊かになれるのか?本当の富とはいったいなんなのか?を考えたり、実際に行動できるはずです。しかし、進むしかない。この最大のジレンマに対して、理性がどう働くでしょう。答えなどありません。
私としては、なるほどナイジェリア国民のひとりひとりが、もっと学び、考え、論理的にものごとを捉えてなにが悪いのかを把握するトレーニングを必要としていることに当然同意します。ただそれは、たとえばオイルメジャーの連中はもっともっと成すべきでしょうし、アメリカもその他の西欧も、あるいは日本も、彼らが”真似せざるを得ない”対象であるがこそ、より切実に心がけるべきことだ、といううことが私の主張なのです。
子供たちが「ギブミー」を始める理由とは、誰かが過去に与えたからです。その誰かは確かに善意なのでしょう。しかし、その善意がひとびとから誇りを奪っていく、その代わりに欲望を植えつけていくこともまた然りです。
”民”の力で国を変えていくことができるのなら、それはベストのやり方でしょう。また、そういう地道な努力は間違いなく必要ですし奨励されるべきです。ただし…恐らくは地道な努力を踏み潰そうとする”巨大な勢力”による負の理性に覆われた世界に、どうにかして希望を根付かせないことには、本当の力は生まれてこないでしょう。それは理性よりも知性よりも、真っ先に必要なことなのだ、と私は思うのです。
NANさん
まぁ、私の中に「青っくさいドン・キホーテ」部分があるのは、NANさん良くご存知の通り。
そこは極力抑え抑えするようにしてはいるのですが、NANさんのような鋭い方には簡単に見透かされてしまうようですけれども。
私はNANさんがおっしゃる「希望論」に全く異論は無いわけですけれども、私が滞在していたころというのは、「その3」に書いたように幾ばくかの「夢、希望」があったんです。
恐らく、希望の頂点は原油発見、そしてラゴス市建設のあたりだったと思うのです。
ですが、ラゴス市のその後の荒廃を見れば、内部からも、外部からも近代都市、国家、向いてねぇぞ、みたいなことがだんだん見えてきちゃったわけです。
「希望グラフ」は明らかに右下がりを描いちゃってるわけですね。
私のいた頃は、ようやくテレビをはじめとするく電気製品が一般に普及しはじめ、車もまじめに働いていた人間にはかなり無理すれば手に入るところまできはじめていた(勿論買えるのはエリートだけでしたけど。私の運転手は毎日片道二時間近くを自転車通いだった)
で、あの頃からそうでしたけど、どうして上手く使えば有り余るほどの外貨があるのに都市が荒廃しちゃったり、学校プロジェクトが田舎じゃだめになっちゃうかという疑問が皆にあり、まぁ、床屋政談がそこここで始まるわけですけど、大抵、罪のなすりあいになっちゃうんですよ。(○族が悪いんだ、みたいな)
まぁ、どこの国でも似たようなもんなんでしょうけど。
こういう議論のときに、自分はそこにいて実際見たんだ、というのを錦の御旗にするのはアンフェアなのはよくわかってるんですけど、要するに私が理性、理性って言いたがっちゃうのは、彼らの短気なところとか、我慢を知らないところとか、感情にものごとをまかせちゃうところなど、批判を恐れずにまとめるとセンシンコクで言う「幼児性」にこりごりしちゃってるからだと思うんです。
で、私が思うには、もしいま、理想の政府ができたところで、内部崩壊しちゃうのは自明なんじゃないでしょうか。(センシンコク流にやるとして)
最後に、もう一つアンフェアすると、「一日一秒たりとも車のクラクションの音がしない瞬間が無い都市」に住んでみると、とりあえず言いたくなるのは、「お前らいい加減にしろ!」です、ハイ。
中国の道路
初めて中国に滞在したときは、驚いたものでした。まさに、混沌。社会主義国というイメージとは程遠い、カネでなんでも通してしまう世界。贅沢を尽くしたマンション群と、メルセデス・ベンツにBMWのラッシュ。片側3車線ある道路に、追加3車線はしているだろうと思える乱雑なトラフィックと、始終鳴り止まないクラクション。建築途中でなぜか放棄されたビルと、周囲に散らばる資材。湖を貸切で遊ぶ富豪…などなど。
ある役人と食事をしたとき、彼は日本に留学経験があり、かなり日本語に堪能でした。その彼に、道路のカオスぶりについて話したところ、確かに日本の道路はマナーが良く、細い道路を最大限に活用している…だけど、中国の文化は違う、と云われました。
「そうか、アレは文化なのか」
と、私は思ったのです。なにか納得しました。笑いさえ出てきて、私がなぜ笑うのかを、役人は理解したようでした。
クラクションが鳴りっぱなし、音のしない瞬間のない都市を「いいかげんにしろ!」と感じる文化は、ちょちょんまげさんのものです。民族主義、部族主義、国粋主義などに執着し、発展を阻害させている、と感じる文化も、外から来たものです。仮にそうした”未開の文化”と我々が感じるもので彼らが滅びてしまったとしても、それは彼らの責任であり、私たちのものではありません。
しかし今、ナイジェリアをとことんまで追い詰めてしまったものは、外から押し付けた文化です。いい加減にするのはどちらでしょうか。
私のアンフェア
もっと「お前らいい加減にしろ!」と言いたくなるのは鉄道です。数分おきに発着する電車には、一台に何人入るかギネスに挑戦ってわけでもないだろうに、人々が詰めこまれている、彼らは、それをほぼ毎日、それも1時間するという人だっている、どうして耐えてるんだ、「いい加減にしろ!」って言いたくなりますよ。
この国は、シンガポールや韓国ほどではないにしろネット環境は整備されているし、製造ラインは都心にないしで、どう考えても、この国では、こんな多人数が数時間も朝夕に拷問を受ける必然性はないはずなんです。
それで、ふと思ったのです。勤労者の給与ってのは、労働の反対給付だって、普通は考えますよね。ところがこの人たちは、勤務先に「属する」反対給付って考えてるんじゃないのか、それで労働は属することに伴う「義務」であると。つまり「属する」というステップを通じてしか勤労を実感できないし、属する実感のために、毎日の拷問に耐えているんじゃないか。そういう仮説を思いつきました。
その国って、制度的にはヨーロッパ諸国と同じく「社会契約」としての国の制度を整備しているんですね。ところが、その国では、いまだに「国歌有機体説」みたいなことが通用している。国は自分たちが作った制度だとわかっていても、実感としては、国があって属していると思ってるんじゃないのか。だから、やたらに従順なんじゃないのか、とも思うのです。
結局、その国は「部族社会」じゃないのか。国全体が部族社会、会社が部族社会。つまり制度としてのゲゼルシャフトがあるのに、構成員は実感としてはゲマインシャフトなんじゃないかと思うのです。
何をもってシアワセかは、人それぞれなんで、その東アジアの都市の人たちが、毎日の拷問や、異様な大人しさを不思議とも何とも思わないのなら、それでいんですけどね。
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属せない人々。
「属せない」議論の続き(2)
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