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わたくしに選ばれたキミは薄幸の「6」君
aサロン_科学面にようこそ_DO科学/「3」を究める
今日の科学:pokoponにっき
みみずくからの伝言:pokoponにっきの科学に対する認識を問う
みつどん曇天日記-5は至高の数字
きっかけは朝日新聞の 「科学面にようこそ_DO科学/「3」を究める」というおバカな記事に対して、とらこさんが批判記事である朝日は科学の名の下にええ加減なことをいうな、そしてさらに、朝日の科学に対する認識を疑うという2本の批判記事を上げられたことだ。
そこまでは良かった。
正しい方向であった。
ところが朝日の記事を「科学である」と真に受けてしまった人がいるところから間違いは始まった。
即ち、南郷力丸氏が今日の科学:pokoponにっきという勘違いエントリを上げてしまったことだ。
南郷力丸氏の「非科学性」については、わたくしがすでに本ブログのエントリで徹底的に「マイナス一個の光子観測」に新理論?(4月1日)で検証し、わたくしの勝利がまるで「佐伯・山本論争」における佐伯氏の完全勝利のごとく明らかとなっている。
まぁ南郷氏の「トンデモ性」についてはわたくしも重々承知していたのでいたし方のないこと、と思っていたのだが、なんと「朝日批判」のノロシを上げたとらこ氏が実は「ミイラ取りに行った本人がミイラになってしまった」ことを証明してしまったのがみみずくからの伝言:pokoponにっきの科学に対する認識を問うであった。
さらに、「ニセ科学批判(対策?)界2009年最大の収穫」とまで一部で言われていた「みつどん」氏までが実は「ニセ科学批判(対策?)界最大のイボ痔」に過ぎないことが明らかになってしまったのが「みつどん曇天日記-5は至高の数字」なのである。
全くもって、どちらも「非科学的」な人たちばかりである。
こういう、思いつきでモノを言うという風潮は、「山本七平」以来、日本ではアタリマエのことになってしまったのであろうか。
科学的に考えればいわゆる一つのスペシャルなナンバーは「シックス」に決まっているでしょうが!
昭和を象徴する巨人軍・長嶋茂雄選手は「6人家族」の一員として誕生し、「東京6大学」の一つである「立教大学」を卒業後巨人軍に入団する。
本当は「6人兄弟の1人」であって欲しかったが、事実と違うデータは捨て去られねばならない。
このあたりが科学の科学たるゆえんである。
ON砲の全盛時代、巨人には背番号「6」をつけた「土井正三」が二番打者としてコツコツと一番の柴田あたりをバントで送っていたのである。
いったい、王や長島が打点を稼げたのは誰のお陰だと思っているのか。
土井のバントなくして二人の打点王なぞありえなかったと言っても過言ではあるまい。
わたくしの幼少時、母に「6はろくでなしに通じるから、人様にモノを差し上げたりするときは6は避けるように」と言われたものであるが、この語呂合わせは良く考えて見れば、「6でないもの」がイカンと言っているわけで母の解釈は本当は誤っており、6以外の数字は実は全部イカンのであるからして、6の勝利はこの一事を持ってしてもすでに確定的なのである。
とらこ氏は「ビートルズは2人も同然」などとトンデモを吹いているが、ビートルズはマネージャーのブライアン・エプスタイン及び、ビートルズになりそこねたピート・ベストを加えて実は6に支配されていたのである。
そればかりか、ビートルズの日本公演の前座をつとめ、後に日本国の全ガキどもの人気者となった「ドリフターズ」はいかりや長介、高木ブー、加藤茶、仲本工事、荒井注、志村けんとやはり6による支配を受けていた。
一口お役立ちメモ:すわ 親治氏は「幻のドリフ第六の男」と言われ、ついに準メンバーから正式メンバーになっていないのです。
そしてまた、日本と「6」の神秘性の深い関わりを考えてみるならば、東京オリンピックで「鬼の大松」に率いられた「東洋の魔女」そして、猫田、横田、森田、大古を擁してミュンヘンオリンピックで金メダルを制した「6人制バレーボール」を挙げなくてはなるまい。
(古過ぎて知らん、とか言う人はあっちいって、シッ、シッ)

東洋の「6人の魔女たち」
国民的人気漫画である「おそ松くん」は6つ子であるし、総務課には「山口六平太 」がいる。
日本国憲法を含む日本国の法典は「六法」である。
このあたりまで「6」はやや地味目なのであるがこのあたりからややハデになってくる。
「ハデ」の筆頭はプロレスにおける「6人タッグ」がまずあげられよう。
他の「格闘技」で「6人タッグ」が可能であろうか?
そんなことが可能なのは断固として「プロレス」だけである。
「6」は最小の「完全数」でいらっしゃいます。ピュタゴラス学派は、最初の完全数が 6なのは「神が6日間で世界を創造した」ことと関連があると考えていたとされているのである。
Pledge Crew氏のこちらのブクマコメ
PledgeCrew 東宝の三大怪獣はゴジラとモスラにラドン、それにキングギドラを加えて四大怪獣と呼ぶという説も。
という「4」支持説は考えが足りないというべきである。
そう、キングギドラはアタマが3つある。
即ち、上記大怪獣たちは全部で「6頭」なのである。
特撮でいうならば、みつどん氏が挙げている秘密戦隊やら、地球戦隊やら、救急戦隊などというチマチマした連中より「ウルトラ6兄弟」を筆頭に挙げるべきであろう。
最近ではウルトラマンレオやら、ウルトラマン80やらを加えて「10兄弟」ということになっているようだが、わたくしはそんなもんは断固として認めない。
そして、「落合博満」が登場する。
背番号「6」、3度の3冠王(合わせて「6」。合わせていいのか、掛けるべきぢゃないのか?という議論はあるかも知れないが)、「オレ流」という個人主義を日本社会に持ち込んだ革命児であり、以後も大きな影響力を球界に持ち、ということは日本社会に影響を及ぼしているのであるよ。
してまた、メジャーどころとしては細木数子の「六星占術」がある。
占いの世界は露出度から言って「6」がすでに制したと言ってよかろう。
ギャンブルの世界でも主役と言うか基本は「六つの目」を持つ「サイコロ」しかありえない。
「6」の文化の世界におけるスペシャルなパワーは、占いやギャンブルだけじゃないぞ!
音楽の世界では勿論「6(ロック)ンロール」だし、世界の若者の憧れ「六本木」だってあるぞ!
そいでね、だんだん苦しくなってきたんだけど、五感を越えた「六感」というものを認めないような偏狭な視野で今後の科学の発展が望めるとでも思っているのであろうか。
みつどん氏の言う:
遠い昔6っつ目の穴から這い出てきたような気もしますが、多分気のせいでしょう
その6っつ目の穴が具体的に何を指すのかよくわかりませんが、近くにあるのに最近遠いものであり、永遠の憧れの対象ではあるものの、だが今晩は疲れているような気がする、という不思議で偉大なものなのではないでしょうか?
追記:ノロノロと書いているうちに、次の二つのエントリーが挙がってしまっているのです。
「7」Interdisciplinary:同じ穴の狢
「8」Gazing at the Celestial Blue 「朝日新聞」「pokoponにっき」「みみずくからの伝言」「みつどん曇天日記」の科学等に対する認識を問う
アタマの悪いわたくしをさっさと追い抜きエントリを挙げられた、TAKESANさんと碧猫さんは実に悪辣と言うべきでしょう。最後のほうがいい加減になっているのはお二人のせいです(きぱ!)
そりゃぁ、わたくしは「6でもない」ですけどね・・・・
いいんだいいんだ、こうなったらもう悪魔崇拝にでも走ってやる!
そう、「666」
山本七平氏の「弁慶がな、ぎなた」読み No.3
まずは、前2エントリのまとめ。
佐伯真光氏が御自分で以下のようにまとめてくれている。
(山本→佐伯批判の内容のまとめ)
(1)イエス・キリストは山上の垂訓で「いっさい誓うな」(マタイ伝5・34)と言った。
だからイエスの教えを奉ずるキリスト教徒が「誓う」はずがない。
(2)ではなぜコーチャン氏は swear したのか。イエスが禁じたのは、oath と swear at であって、 swear ではなかったからである。
(3)swear は「誓う」ではなく「祈り誓う」と訳すべきだ。 だから、コーチャン氏はイエスの教えに違反していない。
以上の山本説に対する佐伯氏の反論
(佐伯)
(1)すべてのキリスト教徒が誓わないというのは事実に反している。イエスの言葉を文字通りに受けとり宣誓を拒否するのは、クエーカー、メノナイト、モラビア兄弟団等のみである。
(2)イエスが swear at を禁じたというのは、「いっさい誓うな」という英文をDo not/swear at/all. と切って読んだからで、文法無視のこじつけである。山本氏が本気でそう考えているのだとしたら、氏は not〜at all という熟語を知らないのだろう。
(3)「祈り誓う」という訳も間違いである。『オクスフォード英語辞典』等を見れば、山本氏が主張するような語義は17世紀以降「廃語」になっていることがわかる。
(3)については、私(ちょちょんまげ)は前の二つのエントリの中で触れていない。
というのは、あんまり長くなると読んでいただけなくなりそうだし、
not〜at all. に早く持っていきたかったからである(笑)
なので、ここでちょっと触れてみよう。
山本氏は
(a). swear →祈り誓う
(b). swear by(at)→(神)にかけて誓う
だとした。
そしてコーチャン氏は(a)の方であるという根拠として、
市河三喜・畔柳都太郎・飯島広三郎編『新英和大辞典』(冨山房・当時すでに絶版)の次の箇所を持ち出した。
六・訴へる、祈願する
[例] To swear gods 神々に祈願する
ところが、不思議なことにその当時刊行されているどんな英和辞書を見ても「祈願する」「祈り誓う」という訳語は見当たらない。
理由は簡単で、swear(他動詞)プラス誓う対象(目的語)という用法は、三百数十年前に廃絶してしまったからだ。(佐伯氏は根拠として、OEDやウェブスター英語辞典にはっきり「廃語」と記してあることを上げている)
山本氏は古めかしい「絶版」になっている英和辞書を引っ張りだして、たまたまそこに自説の都合の良い訳語を発見し、大喜びで牽強付会の説をでっちあげたのだろう。
山本氏がなぜこんなこじつけをあえてしなければならなかったかと言うと、要するに「キリスト教徒は絶対に誓わない」から出発しちゃうと実際にキリスト教徒が世界中の法廷等で毎日「swear」を連発してしまっていることと矛盾してしまうからだ。
辻褄を合わせるためには「swear」と「swear at」は違う意味でなければならなかった。
それにしても、「キリスト教徒はけっして『誓わず』その代わり『祈り誓う』」で誰か納得する人がいるとでも思ったのであろうか?>山本七平
これが恐らく「いる」のである。
山本氏に「誓う」と「祈り誓う」が違うものであるとご神託されるとありがたく承ってしまう方々が。
で、山本氏は「not〜at all」を知らないと暴露されたあと何を言い出すかと言うと:
1.「祈り誓う」に違和感があれば「断言する」でもよい。『新英和大辞典』(研究社)によると swearには「断言する」という意味がある。
2.誓いにはニ形式がある。「在来型」(swear by) と 「断言型」(swear) で前者は「自己への加罰的対象による誓い」、後者は「神への断言型誓い」である。イエスが禁止したのは前者である。
3.「在来型」は「日本国国会型」にほぼ相当し、「断言型」は「米国上院型」にあたる。
だからコーチャン氏は断言(swear) したのであって、誓った(swear by)のではない。
もう何をかいわんやなのである(笑)
1.まず、佐伯氏の「not 〜at all」の指摘のあと、「swear at」は姿を消してしまった(笑)
2.「『祈り誓う』に違和感があれば『断言する』でもよい」というすり替え(笑)
3.一般論を言う時に「ある辞書に拠るとswearには『断言する』という意味がある」ってのも苦しい話だよね(笑)
4.どこから持って来たんだか、「在来型」と「断言型」などと言い出す(笑)
5.「自己への加罰的対象による誓い」、「神への断言型誓い」、「日本国国会型」、「米国上院型」などどまた得意のもっともらしいこけおどしを使う。「not 〜at all 」を知らなかっただけのくせに(笑)
6.「神への断言型誓い」って、「神様」とか、「イエスさま」とか、「議長・委員長」とかに「俺は嘘つかないって断言するぜ」って言うんかね(笑)
以上のアホな詭弁に対し、佐伯真光氏は詳細な反論でイチイチ山本論をぶち壊していくのである。
続く、かな?
山本七平氏の「弁慶がな、ぎなた」読み No.2
1.イエスは「山上の垂訓」で「誓うな」と教えた。よって、キリスト教徒がイエスの教えに反して「誓う」はずがない。(即ち、キリスト教徒であるコーチャン氏が誓うわけはない)
にも関わらず、「誓った」と翻訳されている「佐伯訳」は、「誤訳、珍訳」である。佐伯氏は、宗教学者であるにも関わらず「イエスの山上の垂訓」さえ知らないのである。
2.swear には二つの意味があり、イエスはswear byすることを禁じたが、swearすることは禁じなかった。
山本氏はその二つを次のようなものだと言う。
(a). swear →祈り誓う
(b). swear by →(神)にかけて誓う
そして、コーチャン氏の場合は(a)の方であり、コーチャン氏は「誓った」のではなく「祈り誓った」のであると山本氏は主張する。
従って、「誓う」と翻訳した佐伯氏は誤っており、「祈り誓う」としなければいけない。
ちょちょんまげ注:「誓う」と「祈り誓う」ってどう違うんだ(笑)
分かる人いるんかいな?
3.よって、「アメリカ人は絶対に誓わない」でなければならない。
その認識の無い佐伯氏は誤っている。
では、佐伯真光氏はこの山本氏の批判に対してどう反論したか。
本多勝一編「ペンの陰謀」潮出版社 1977年 より、引用する。
#1
(キリスト教徒がイエスの教えに反して「誓う」はずがない)
(アメリカ人は絶対に誓わない)
に対して:
(佐伯)
----これはまことに乱暴な説である。イエスの言葉を文字通りに受け取り、宣誓を拒否するキリスト教徒は、昔も今も存在する。
クエーカー、メノナイト、モラビア兄弟団はその代表である。
しかし、現在、圧倒的大多数のキリスト教徒は、宣誓を拒否してはいない。
イエスの言葉を、誓いの濫用をいましめたと解するからである。
#2
(イエスが禁じたのはswearすること《祈り誓う》ではなかったに対して)
(佐伯)
しかし、現実には、宣誓しないはずのキリスト教徒が毎日法廷でswearという言葉をとなえている。
この矛盾をどう解決したらよいか。
そこで山本氏は、イエスが禁じたのはswearではない、またswearは「誓う」ではなく「祈り誓う」という意味だというこじつけを発明した。
上の部分は山本氏の次のような記述に対しての反論である。
(山本)
イエスが禁じたのは、実はoathとswear atの否定(新英訳等)であって、swearの否定ではないとするからである。-------もちろん異論もありうる。
(中略)
通常はswearではなく swear by(at)を禁じたものと解する。
従ってチャーチ氏はswear by God(神に誓え)ともswear at all(全てに誓え)とも言っていない。
---当然のことだ。佐伯氏はこれを誤解している。
上記の「もちろん異論もありうる」の忍ばせ方の香ばしさを、ぜひ味わっていただきたい。
「通常〜解する」の逃げ道をそっと用意してあるのである。
この部分の解釈について「佐伯氏はこれを誤解している」と指摘しておきながら、「もちろん異論もありうる」である。
山本氏の卑劣さが垣間見える部分である。
(実は「中略」の部分も、山本氏独特のグダグダを読むことができて面白いのだが、長くなるので省略した)
そして、以下に山本氏完全ノックダウンの(恥を知る普通の人間ならばギブアップのはずの)カウンターパンチが決まる。
(佐伯、上掲山本氏の文章に触れ)
晦渋そのものの文章である。実はこれを「解読」するためには三つの鍵が必要なのだ。
第一の鍵。
引用文冒頭のセンテンスは日本語として間違いである。
「禁止したのは」と言っておきながら次に「否定であって・・・・、否定でない」と言ったので、二重否定になってしまっている。
(中略)
第二の鍵。
山本氏は not〜at all という熟語を知らない。
忖度するに山本氏はこう言いたいらしい。
1 イエスが禁じたもの oath, to swear by, to swear at
2 イエスが禁じなかったもの to swear
そこで、英訳聖書を見ると、イエスはこう言っている。
Do not swear at all.(一切誓うな)
もう、読者諸賢にはお分かりであろう。
山本氏がなにを間違えていたのか。
引用を続ける。
(佐伯)
ところが驚くべきことに山本氏はこの英語を all に swear at するな、と読んだ。
その証拠に上の引用文に swear at が四回もあらわれる。
そのうえわざわざ swear at all (すべてに誓え)と訳までつけている。
イエスは swear at するなとは言ったが、 swear するなとは言わなかったという理屈である。
これを書きながら私はまだ半信半疑である。
まさか山本氏が not〜at all という熟語を知らないとは信じられないからだ。
しかし、事実は事実である。
ギリシャ語の原文はメー・オモサイ・ホロース(いっさい誓うな)である。
というおそ松くん。
そして、佐伯氏の結論。
(佐伯)
わかりきったことだが、at all は否定と結びついて「全然・・・・ない」という意味になる。
だからswear at all (全てに誓え)などという文はありえない。(辞書を見ると to swear atという熟語があるが、 これは 1.ののしる 2.調和しない、という意味で、今の議論とは関係がない)どう考えても山本氏はこの英語を Do not/swear at/all. と読んだとしか思えない。
山本氏の英語力は「弁慶がな、ぎなたを・・・・」と読んだ落語の熊さんの日本語なみである。
本来、議論はこれでお仕舞いのはずである。
しかし、山本氏はここからさらに醜い抵抗を延々と続けるのである。
さて、ひと段落したところでwaveriderさんに伺いたいのだが、この論争のここまでの経緯を読まれて、(主に五ヶ月間もウダウダと続いちゃったことの)問題は佐伯氏側主張が「正論・正しいことが権威を帯びた」ことなのであろうか?(とりあえずwaveriderさんが佐伯氏側の正しさを認めてくださったとして)
それとも、山本氏が、卑怯・卑劣・馬鹿だったことなのであろうか?
私には佐伯氏に一点の問題もなく、山本氏側に200%ぐらい責任があるように思えるのですけれど。
注:引用内の発言者名、強調、下線などは全て引用者によるものです。
山本七平氏の「弁慶がな、ぎなた」読み No.1 5/9/09 追記、修正あり。
とらこさんのご指摘を受け、文章の推敲し直し、追記、挿入等行いました。
こちらの記事waveriderの日記-ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判についてに付けた私のブクマコメに対して、waveriderさんがエントリを上げて(おまけ:chochonmage さんのブックマークコメントについて)、言及してくださった。
私のブクマコメは以下の通り。http://b.hatena.ne.jp/entry/http://redirevaw.blog77.fc2.com/blog-entry-272.html
愚樵さんそっくり/ 根本主義者が進化論を引きずり降ろしたがってるのはなんなのでしょう?/「水は人語を解さない」って「電気がないとテレビ映らない」ぐらいの話だと思うんだけどそんなに権威的かな?
私が気になったwaveriderさんのご記述は:(以下、ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判についてからの引用:)
最も重要なこと。
「正しいこと」は、権威を帯びる。
これは文化や規範を超えて働く、人類共通の法則だと私は考えている。
この「正しいこと」は種類を問わない。神や科学や真理や道(タオ)やダルマ、何でもよい。
例えば、ある人が「正しいこと」を発言し、聞き手もそれを「正しいこと」だと認識した場合、その発言や発言者は権威を帯びる。
権威とは、大辞泉によると「他者を服従させる力」のことで、その強力さゆえ取扱には細心の注意を払わねばならない。
したがって、「批判 vs 批判」の問題は、ニセ科学批判者の態度や振る舞いの問題に帰結する。
西洋(プロテスタント)の合理的思考や科学的思考というものは「神 → 真理 → 科学なので、科学の探究は神への道」という根拠がある。
西洋史の視点からいうと、一神教を信仰することと合理的・科学的思考を追求するというのはセットの概念なのだ。
では、合理性追求や科学探究の根拠として日本人が一神教の代わりに据えているものはいったい何か?
それは儒学や朱子学ベースの、勤労や勉学を尊重する概念じゃないかと思う。
プロテスタントの根本主義者が「科学に背を向けるものは神の真理に背を向けている」と言っちゃうのと、どっちが寒いだろうか。(比べるこっちゃないな…)
そして、以下がおまけ:chochonmage さんのブックマークコメントについてからの引用:
これは山本七平「空気の研究」を読めば分かるんですが、
・「アンチ進化論」や「Intelligence Design = ID論」といったものは、米国人特有の思考枠組から発生している
・「水伝」は、日本人特有の思考枠組から発生している
ということです。
「アンチ進化論」や「ID論」は、米国人のツボを突きまくってるし、「水伝」は日本人のツボを突きまくってる。
その点では、「永久機関」や「波動」といった普通の? ニセ科学よりもはるかに厄介です。
水伝を否定するには、日本人が潜在的に持っている思考枠組に相反しなければいけない。そのハードルは意外と高い。(だから水伝はあんなに流行ってしまった)
件の記事で書いたように、科学や合理性に根ざした呼びかけは、発話者の意図に関係なく強制力を帯びてしまうものです。
私のブクマコメのポイントは:
1.waveriderさんの見方が「愚樵」氏(愚樵空論)にそっくりである。
まぁ、これはある意味余談なのなのですけれど、「科学」の権威性、とか一神教→科学とかの論の進め方が実に似ているなぁという感想。
こちらも良く似ているように私には思える 。「光るナス」
2.waveriderさんの、「したがって、「批判 vs 批判」の問題は、ニセ科学批判者の態度や振る舞いの問題に帰結する。」にすごく疑問があること。
3.「プロテスタントの根本主義者が科学に背を向けるものは神の真理に背を向けている」が、根本主義者の「反進化論行動」と矛盾するんじゃないか、ということ。
これについては、「waveriderさん、論理矛盾してますよ」で、本来終わりなんじゃないかと思いますけれども、waveriderさんは「米国人特有の思考枠組から発生している」という私には後付けに思えるような根拠をお持ちのようなので、ぜひその「米国人特有の思考枠組み」とやらを「waveriderさんがお考えになるアメリカ人とは何者か」を含めたご説明をいただきたいと思う。
私がほぼ半生をすごした、広大で、実に雑多な人種が棲息する「アメリカ合衆国」に住む人々がそんなに単純に一括りにできるようには私には思えないのですけれど。
4.「山本七平」・・・・
人の好きなものを腐すのはどうかなとは思うのですけれど、waveriderさんがおっしゃる「空気の研究」が一読すれば「日本人の思考枠組み」や「アメリカ人の思考枠組み」が即理解できてしまうような「魔法のような本」であるとは到底信じられません。
反論のために同書を購入して読んでみようかとも考えましたが、やはりそうはしたくなかった。
山本氏の本を買うくらいなら、金をドブに捨てた方がまだマシぐらいに感じるのです。
ネットで検索してみると、没後20年近くになるというのに山本氏の人気は高い。
私にはこの山本氏の人気というのは不思議でしようがないことである。
と言うのも、私にとっては「山本七平」は「卑怯・卑劣」、「詐欺師」、「
五月九日挿入、追記
以下のエピソード(「佐伯・山本論争」)の内容は、本多勝一編「ペンの陰謀」潮出版社 1977年 に拠っています。
同書に対して、本多氏の編集の仕方に批判がありますが(例えばここ→「勝負あった!佐伯/七平論争」、批判は本多氏に対するものであり、その批判内容は「佐伯・山本論争」の内容そのものには一切関係ありません。
山本氏の、「卑劣・ペテン性」を暴露し、徹底的に批判した本としては、
浅見定雄氏の「ニセユダヤ人と日本人」があまりにも有名だが、私が今回ご紹介したいと考えているのは、それよりは知られていないエピソードではないかと思うし、もっと広められるべき事実だと思う。
これをもって「山本ファン(信者?)」の皆様が考えを変えられるとは考えていないし、ここで山本氏がどれだけ卑劣であったとしても氏の著作が全て否定されるとは言えないだろう。
だが、恐らくここでの行為を山本氏が「自然科学の世界」で行っていたら、まず間違いなく誰も氏の言うことを信用しないだろうし、おそらく追放だろうと思う。
私はこのエントリで、山本氏の無知が悪いと言っているのではない。
山本氏の、明らかな誤りを決して認めない態度、そればかりか牽強付会、強弁、すり替え、論点無視を繰り返す氏に対して、卑怯、卑劣、馬鹿だと言っている。
よって、どうしても「論の誤り」のみならず、氏の「人格」にまで言及せざるを得ないことを附記しておきます。
諸賢の「山本七平理解」への一助となれば幸いである。
この「佐伯・山本論争」をご紹介し、その後にあらためてwaveriderさんの「したがって、「批判 vs 批判」の問題は、ニセ科学批判者の態度や振る舞いの問題に帰結する。」に対する私の疑問を提示したい。
全ては、「ロッキード事件」(若い人はもう名前ぐらいしか知らないんだろうな。私はリアルでどきどきしながら経緯を追っていましたが)発覚の発端とも言える1976年2月6日に行われた多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で「ロッキード副会長アーチボルド・カール・コーチャン」氏の「宣誓」が行われ、その日本語訳を
論争?(とも呼べぬ、一方的な話ではあったが)は1976年5月頃から、10月あたりまで続けられた。
山本氏がこの佐伯氏の「翻訳」にイチャモンを付けた真意は山本氏が言明していないので明らかではないが、おそらく渡部昇一氏などと並び当時の右派論客として、ロッキード事件の推移(田中元首相の逮捕など)に批判的だった山本氏が、お得意の「真意を隠して枝葉に噛み付く」戦略を取ったのではないかと想像する(あくまで憶測だが)
さて、問題のコーチャン氏の「宣誓」は英語原文は以下の通りである。
Sen. Church: Mr. Kotchian, would you please stand to take an oath?
Do you solemnly swear that all the testimony you will give in this proceeding will be the truth, the whole truth and nothing but the truth, so help you God?
Mr. Kotchian: I do.
そして、以下が佐伯真光氏の日本語訳:
チャーチ委員長:「『この公聴会で私がおこなう証言が真実であり、真実のすべてであり、真実以外何ものもつけ加えたものでないことを、私は厳粛に誓います。そのために神がお助けくださるように』と、あなたは誓いますか」
(引用者注:チャーチ氏のMr. Kotchian, would you please stand to take an oath?及び(5/9/09追記)コーチャン氏のI do.は省略されている)
もともとこの訳文は佐伯真光氏が「アメリカ人は神に誓うので真実を語るが、日本人は良心に誓うだけなのでウソをつく」という俗説批判のために発表されたものである。
佐伯氏の論点は:
「英文議事録を読むと、コーチャン氏はswear(誓う)とは言ったが、swear by God(神に誓う)とは言っていない。
だから、『アメリカ人は神に誓うが日本人は・・・・・』という議論は日本人の早合点にすぎない」
ということであった。
山本氏は、「日本人ウソツキ」という結論はお気に召さないだろうが、このいかにも山本氏が好みそうな「〜人(日本人とかアメリカ人とか)十把一絡げ論法」(前掲の「愚樵空論」氏あたりもお好みのようですが)を擁護してみたいような気があったのではなかろうか(これはあくまで憶測)
で、山本氏がこの佐伯氏の訳文に対し、「誤訳、珍訳」であるとイチャモンをつけた。
どのような内容であったかと言うと:
1.イエスは「山上の垂訓」で「誓うな」と教えた。よって、キリスト教徒がイエスの教えに反して「誓う」はずがない。(即ち、キリスト教徒であるコーチャン氏が誓うわけはない)
2.swear には二つの意味があり、イエスはswear byすることを禁じたが、swearすることは禁じなかった。
山本氏はその二つを次のようなものだと言う。
(a). swear →祈り誓う
(b). swear by →(神)にかけて誓う
そして、コーチャン氏の場合は(a)の方であり、コーチャン氏は「誓った」のではなく「祈り誓った」のであると山本氏は主張する。
ちょちょんまげ注:「誓う」と「祈り誓う」ってどう違うんだ(笑)分かる人いるんかいな?
3.よって、「アメリカ人は絶対に誓わない」でなければならない。
さて、この山本氏の佐伯批判が如何にアホなシロモノなのか。
佐伯氏の見事なカウンターが決まる。
そしてこのあと、山本氏の醜悪な迷走は続く。
続きます。
本書に対して、本多氏の編集に批判がありますが、「佐伯・山本論争」の内容そのものには一切関係がありません。
「マイナス一個の光子観測」に新理論?(4月1日)
すなわち、
同業他社禁止の定理
タケヤにおいて光子の存在確率は1でした。一方、マルコメにおける光子の存在確率は0です。というのも、同業他社禁止の定理により、ミソの条件下では、Σ(光子の存在確率)≦1が成立するからです。
ところが、最近のタケヤでは、タイムパラドックス現象によって、光子の存在確率が2になっています。ということは、上掲の条件式によって、マルコメでの光子の存在確率はー1になることが導かれます。ですので、マルコメを観測すればいいんじゃないでしょうか。
「同業他社の定理」、タケヤにおける「タイムパラドックス現象」、そしてそれらしい数式・・・・
わたくしは、この理論を精査した結果、「これは偉大な理論かもしれない」という予感を得た。
そして、これは愚○氏どころではない、人類の福音となるかも知れぬ、という思いにつき動かされ、すぐさまマルコメを観測せねばならぬと決心したのである。
そして、わたくしは思い出した。
過日当地で行われた「Japanese Food and Sake Festival」においてマルコメがブースを出しており、しかもこのわたくしがその写真を撮っていたことに思い至ったであった。
これを神のご加護と呼ばずしてなんであろうか。
日頃のわたくしの深い信心がこの奇蹟を呼んだのであろうか。
そしてわたくしに何か特別な使命をおあたえになったのであろうか。
ならば、「南郷理論」を画像によって検証し、確かブログに投稿されたコメントの著作権もブログ主に属するはずだよな、などと考え、「南郷理論」をすっかりパクって「ちょちょんまげ理論」として発表し、さつき様あたりに査読していただいて物理学会に華々しくデビューしちゃおうかなどという欲得のエネルギーもまたわたくしのモチベーションとなったのであった。
わたくしは早速目を皿の様にして下の画像を観測したのである。

確かに「1」はある。(No.1 MISO Makerのとこね)
そして、小坊主の眉毛がマイナスに見えないこともない。
だが、「−1」はわたくしの目の前に姿を現さなかった。
わたくしは目を皿のようにしたのが「不確定性原理」に引っかかったかと、知らぬ振りで見たり、突然振り向いたりしながら画像を観測してみたが、やはり、「−1」は現れない。
ここで、わたくしの心に「南郷理論」に対する不信感が芽生えたのである。
そのとき、わたくしの明晰な頭脳はついに「南郷理論」の決定的な欠陥に気がついた。
それは、
なぜ、「マルコメ」でなければならないのだ!
信州一の立場はどうなる!
ということであった。
考えてみれば、そのあたりが南郷力丸氏の悪辣(笑)なところで、人は「タケヤ」と言えば反射的に「マルコメ」と考えてしまうものである。
これは、関東の人間ならば、「伊東にいくなら♪」と歌われたなら、思わず「ハ・ト・ヤ♪」と返してしまうことに似ていると言ってよいであろう。
そういう人の心理的な弱みにつけこんで腹黒(笑)なコメントを残すのが南郷氏の特徴である。
そして、考えてみれば、味噌のメーカーというのは他にも「ハナマルキ」、「マルサンアイ」(このメーカー知りませんでした。なんとシェアで第三位)(味噌の主要メーカーシェア)等々、なんと1,300社もあるとのこと。
だとするならば、有名タレントを使ったテレビコマーシャルなぞ望むべくもない中小メーカーが圧倒的に多いわけで「同業他社禁止の定理」なぞ、一部大メーカーに限られた話ではないか!
同じ「光子」でも.そのへんの顔の知られていない「光子」さんの写真かなんか使って、「光子も○○味噌」とかいうポスターとかビラとかチラシを作ったところで「光子」そのものがそれほど売り上げに貢献するとは思えない。
ここに、南郷氏の大資本寄り、そして弱い物はどうでもいいけんね、という差別的な立場が明らかになるのである。
さらに、「味噌」は日本だけの物ではない。
中国、韓国、台湾その他のアジアの国々にも味噌メーカーは多数あるに違いない。
そして、漢字文化のある諸国であるならば、きっと「光子」さんもいるであろう。
特に、日本がかってアジアの国々に日本文化を押し付けた過去を思えば、きっと「光子」さんという名前を強要されたような方もいらっしゃるのではないか?
ここに南郷氏の「日本特別視史観」があらわになる。
さらに、考えてみれば、当地アメリカでも味噌は現地生産されているのであった。
ならば、中には「Photonさん」という名前の方もいらっしゃるかもしれない(多分いないだろうけど)
で、「Photonさん」が男名か、女名かわからない以上「光子」が女だと誰が言えるのかッ。
ここに、南郷氏の「男女差別思想」さえ明らかになったのである。







